80年代から90年代の初期まで活躍した歌手・尾崎豊さん。
1992年に惜しくも亡くなってしまいましたが、現在になっても尾崎豊さんの生き様や死去した当時のことは語り継がれています。
尾崎豊さんが死去した当時、死因は極度の飲酒による肺水腫だとされました。
しかし、その後に週刊誌が尾崎豊さんの遺体の写真や、亡くなる直前に持ち歩いていた遺書の内容を報じたことで、尾崎さんの死には闇深い真相が隠れているとされました。
今日は尾崎豊さんの死因と、亡くなった後に週刊誌で公開された遺書の内容について書いたみたいと思います。
また、「アウトデラックス」に出演した芸人”はなわ”さんのいとこで、尾崎豊さんの大ファンである「慶(けい)」君が番組で語った尾崎豊さんの最後の姿についても振り返ってみたいと思います。
報道された尾崎豊の死因は肺水腫。その後に「外傷性くも膜下出血」と発覚?
尾崎豊さんが亡くなったのは1992年4月25の朝です。
自宅からほど近い、東京都足立区内の住宅街で全裸で傷だらけになった状態で発見されました。
発見後に救急車で病院に運ばれ、一時期は帰宅するなどしますが、再び病院に入院し、同日午後0時6分に死亡しました。
死去した翌日、大手新聞社がこぞって尾崎豊さんの死去を一面で伝えました。
テレビの方で報道でも大きく取り上げられ、涙する著名人や一般人の姿が映し出されました。
当初、尾崎豊さんの死因は極度の飲酒による肺水腫と各メディアで報じられていました。
日頃からお酒が好きだった尾崎豊さんのことなので、その死因は自然でありました。
しかし、死去した2年後の1994年に尾崎豊さんの司法解剖の結果が記された「死体検案書」のコピーが外部に流出したことで、”本当の死因は別にある”と、陰謀説や自殺説が流れたのです。
当時から、本当の死因は「外傷性くも膜下出血」であると疑われました。
尾崎豊の実父・健一さんと実兄・康が再検査を求め10万人以上の署名を集める
1992年に亡くなった際は「極度の飲酒による肺水腫」でしたが、1994年に司法解剖の結果が記された「死体検案書」のコピーが流出したことで事態は一転。
尾崎豊さんのファンを筆頭に、実父・健一さんと実兄・康さんが警察に再検査を求めて署名運動を始めたのです。
結果的に10万人以上の人が、尾崎豊さんの死の再検査に署名したとされます。
死後も一部の報道の影響もあってか、尾崎豊さんに関する話題は絶えず、良い話も悪い話も出始め、攻撃的に家族を攻撃したファンもいたようです。
この時期に、尾崎豊さんの嫁である繁美さんと、息子の裕哉さんは嫌がらせを多く受けるようになり、恐怖からアメリカに渡米して生活の拠点を変えました。
当時、よく言われたのは嫁・繁美さんの陰謀説です。
嫁・繁美への疑惑。尾崎豊への陰謀を報じた記者は敗訴
1994年に診断書のコピーが流出したことで、尾崎豊さんのファンや家族は再検査を求める署名を集めました。
ちょうど同じ時期、残された嫁の繁美さんと息子の裕哉さんは私生活に支障をきたすとして、海外(アメリカ)での生活を選びます。
そもそも、なぜ嫁・繁美さんに対しての嫌がらせが始まったのか?
理由は一部メディアが尾崎豊さんの死に嫁・繁美さんが深く関わっていると陰謀説を唱えたせいです。
尾崎豊さんは瀕死で発見され病院に搬送、その後の一時帰宅しています。そして、その後に再び病院に戻って死去しました。
病院から自宅に戻った際、嫁の繁美さんが尾崎豊さんに何かしたのではないか?という疑惑や、外傷を加えた相手が存在しそれは繁美さんが頼んだのではないか?という説が上がったのです。
実際には尾崎さんが自宅に戻った際、兄の康さんもいましたし、その兄は再検査を求めて署名まで始めてます。死去後には詳細を綴った本まで出版してます。
単純に考えて、兄・康さんの行動を考えれば、繁美さんが尾崎さんに何かできることはないと思えますし、仮に共犯だったとしたら派手に動きすぎであります。
繁美さんによる陰謀説は、かなりデタラメなガセネタであることが分かります。
ちなみに繁美さんは、その陰謀説を訴えたメディアの方と裁判で勝負し、見事に勝訴しました。
嫁・繁美が陰謀説の疑いを巡って記者の裁判に勝利
小さな子供がいながらも、若くして旦那を失ってしまった尾崎繁美さん。
生前も旦那の薬物による逮捕や斉藤由貴さんとの不倫騒動など、嫁として色々と苦労しています。
旦那・尾崎豊さんが死去された後は、今度は旦那の死に関わっているのではないか?と陰謀説を唱えられ、嫌がらせを受け、日本を出るしかなくなりました。
出会いから別れ、別れた後も壮絶な苦労の連続でありますが、最後に記者への裁判に勝訴しています。
今となってみて考えると、尾崎豊さんの人生もすごかったですが、繁美さんの人生も同じぐらい濃度が濃いです。
尾崎豊が嫁や息子に宛てた遺書の内容。自殺が濃厚
尾崎豊さんの死後、本人が遺族に書き残した遺書が週刊誌に公開されました。
公開された時期は2011年の11月で、死去した1992年から18年後でした。
尾崎豊さんの遺書を公開したのは2011年11月10日に発売された月刊文芸春秋です。
遺書を公開したのは、尾崎豊さんの死去後、嫁・繁美さんと親交のあったジャーナリストの加賀孝英さんです。
加賀さんは1994年に、尾崎豊さんの遺書を預かっていたそうです。
尾崎豊の遺書全文。「ずっと死にたかった」「夢を見ます」
先立つ不幸をお許し下さい。
先日からずっと死にたいと思っていました。
死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、
そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。
(中略)
さようなら
私は夢見ます。
尾崎豊はずっと自分の自殺を予知していた?ずっと遺書を持ち歩いていた
週刊誌に公開された尾崎豊さんの遺書の内容を読んでいる限り、ずっと前から自殺願望を持っていたことがわかります。
また、生前の尾崎豊さんがセカンドバッグの中に常に遺書を入れて持ち歩いていたことも明らかになっています。
なぜ死後18年後に遺書が公開されたかというと、当時2歳だった裕哉さんに父親の死を理解するのが難しく、最低でも裕哉さんが20歳を超えたタイミングで公開すると決めていたからだそうです。
この遺書とは別に、息子の裕哉さんに向けた遺書も公開されていました。
私はただあなたを愛する名の神でありつづける。
皆の言うことをよく聞いて共に幸せになって下さい。
こちらの遺書は、当時まだ小さかった裕哉さんに合わせてシンプルとなっています。
ちなみに遺書を公開した加賀さんは、尾崎豊さんの他殺説を真っ向から否定しています。
加賀さんが医者に取材した際に、その医者は尾崎豊さんは自殺であったとハッキリ断言していたそうで、尾崎豊さんの自殺でほぼ確定だそうです。
死の20日前に尾崎豊と嫁・繁美は夫婦揃って自死しようとした?
週刊誌の記事の中でもっとも衝撃的だったのが、尾崎豊さんが死去した1992年の4月25日から20日前の4月5日に、夫婦揃って心中しようとしていたことです。
方法は睡眠薬を大量に飲むということだったそうです。
それがうまくいかず、その後になってひとりで亡くなったということです。
ただ、そうだとしたら、なぜ尾崎豊さんは自殺したいと思うようになったのか気になります。
尾崎豊の悩みや葛藤。孤独と薬物漬け
遺書の内容に書いてあるように、生前の尾崎豊さんはとても孤独だったことが分かります。
自殺を考えることを話す相手すらいないと書いてあります。
音楽の仕事が思い通りにできなかった逸話もありますし、アメリカで覚えた薬物に溺れてしまった逸話もあります。
ちなみに末期の尾崎豊さんは、薬物のやりすぎで、胃腸も機能しない極限状態だったそうです。
覚せい剤も体内に吸収できない状況だったということで、薬物中毒だけど薬物ができない状態で、相当に苦しんでいたことが想像できます。
アウトデラックスに出てきたはなわの従兄弟・慶の尾崎豊の最後の話は妄想?
尾崎豊さんの死後から30年近く経った後に、バラエディ番組で変な発言をする人が登場してファンを困惑させました。
人気番組「アウトデラックス」に芸人・はなわの従兄弟の「慶(けい)」くんが登場し、”自分に尾崎豊の霊が降りてきてる”と奇妙は話をしたのです。
尾崎豊さんが繁美さんとの初対面で、番号を聞かれたけどアデランスの番号を教えた話。慶さんが繁美さんに会った際に番号を聞き、その際に「どうせアデランスの番号を教えるんでしょ」と言った話。
繁美さんとの初対面で直感的に「しーしゃん」と読んだら、なんと生前の尾崎さんも繁美さんのことを同じあだ名で呼んでいたという話。
尾崎豊さんの死ぬ前の最後の言葉は「あーごめん」(何かを掴もうとしたら繁美の頭を叩いてしまった際に)だったという話。
尾崎豊さんの霊が慶くんに「本当はありがとうって言いたかったのに、なんでゴメンって言っちゃったんだろう」と後悔してることを自白した話など。
一時期、彼の話が本当なのか嘘なのか、ネット上で物議を醸していました。