日本を代表するロックスター・矢沢永吉さんですが、実は私生活では壮大な不倫騒動を起こした末に離婚しており、現在の嫁さんは2人目です。
最初に結婚した嫁・すみ子さんとの出会いや結婚生活、そして悲しい離婚までの道筋は、過去に矢沢永吉さん本人が出した書籍にてしっかりと書かれています。
矢沢さんが書籍で元嫁や子供のことについて書いたのは随分昔で、現在の元嫁と子供の情報は謎です。
現在までにわかっている、矢沢永吉さんと元嫁・すみ子さんの馴れ初めと結婚、子供の誕生と幸せだった川崎での地に足のついた生活について振り返ってみたいと思います。
また、最近になって噂になっているすみ子さんと、その子供の現在についても書いてみたいと思います。(ほとんど都市伝説ですが)
矢沢永吉とすみ子の馴れ初めはグルッペ。すぐに交際し同棲し結婚。ヤマト時代の出会い
矢沢永吉さんは20代前半は横浜のクラブやディスコでの活動が中心でした。
前妻のすみ子さんと出会った場所も「グルッペ」というディスコで、当時の矢沢さんはそのお店で「ヤマト」というバンドで毎日のように演奏して暮らしていました。
矢沢さんとすみ子さんの馴れ初めは1972年、当時矢沢さんは23歳ですみ子さんは20歳でした。
すみ子さんがお客さんとしてグルッペに訪れた際に、矢沢さんが一目惚れし、その日のうちに結婚を前提に付き合いたいと告白したのです。
当時の矢沢さんは4日ごとに女を変えるほどモテモテであり、そんな矢沢さんが「結婚する」と予感してアタックしたということは、相当にすみ子さんが好みで運命を感じということですね。
矢沢さんは、
ディスコに来たマブイ女 それが女房だった
結婚前提でつきあってくれ 出会ったその夜に言った 同棲が始まった
と書籍で綴ってるように、出会ったその日から結婚前提の交際が始まり、すみ子さんは実家を出て矢沢さんとの同棲を始めたのです。
そして出会った同年1972年の年内に結婚することとなったのです。
矢沢永吉とすみ子は出会ってすぐに交際・同棲・結婚
出会った時点でのすみ子さんは銀行員の仕事をしていましたが、矢沢さんと結婚し支えるために仕事はやめました。
当時の矢沢さんは無名でお金もない時代でありましたが、すぐに売れてすみ子さんに楽をさせてやろうと思っていたのです。
結婚当初はお金がないということで挙式もしておらず、結婚指輪も矢沢さんの母が買ってあげてました。
そんな結婚指輪も、矢沢さんがキャロル結成後に出演することになった大型ライブの衣装を工面するために、一度は質屋に預けたこともあったそうです。
子供も3人生まれましたが、矢沢さんは結成したキャロルの活動が順調だったということで勝算があったそうです。
矢沢永吉とすみ子の間に生まれた3人の子ども。不倫・愛人問題で離婚
矢沢永吉さん率いる「キャロル」はたちまち人気バンドとなり、それなりにお金が入るようになりました。
他のメンバーは東京で家賃8万の良い物件を借りて、毎晩のように酒浸りで楽しんでいました。
しかし、矢沢さんは嫁さんと子供を養わないといけないので、川崎の家賃17000円の狭いアパートで、家族で肩を寄せ合って暮らしていました。
子供の名前は長男は栄一郎さん、次男は寛十郎さん、長女は綾子さんです。
矢沢さんは家族と自分の夢のために懸命に働き、キャロルが解散した後はソロとして名を馳せました。
第三子の娘が生まれた際のことを矢沢さんはこう振り返ってます。
「長男の栄一郎、次男の寛十郎の時も嬉しかった。でも、娘って聞いた時、異常に嬉しかった。何でだろう?娘抱いてさ、俺、いったよ。『お前は今日から矢沢家の一員だ』って」
家族のために音楽でビッグになる夢は、着実に近づいていました。
しかし、ソロとして忙しくなると、矢沢さんは自分の家でも音楽の仕事続けるようになり、さらには帰りが遅くなる日が増えました。
嫁のすみ子さんは「仕事を家庭に持ち込まない」「朝8時に家を出て、夕方6時に帰ってくる男と結婚したかった」と愚痴るようになり、夫婦の絆は揺れます。
矢沢さんとすみ子さんが離婚したのは1989年ですが、実はもっと前から夫婦の愛情は冷めていたのです。
矢沢永吉さんはすみ子さんとの離婚の理由を、不倫関係が出る手前「愛がなくなった」と仰っていました。
矢沢永吉が現在の嫁・マリアとの不倫を始め離婚への道を行く
すみ子さんと矢沢さんが結婚したのは1972年で、離婚が成立したのは1989年で、実に17年の長い結婚生活でありました。
しかし、蓋を開けてみると、マリアさんと不倫を始めたのは1970年台の後半からで、1985年にはマリアさんとの間に娘が誕生しています。(現在、歌手として活躍してる洋子さんです)
入籍していた時間は17年と長いですが、二人が愛し合っていた時間は、実質もっと短かったのです。
ただ、後になって矢沢さんはすみ子さんと過ごした日々に戻りたいと語るように、後悔の念が強くあるそうです。
「できれば、ぼくは何度も何度も戻りたいと思った。 いま振り返ったら、まだ川崎に住んでいたとき、 すごい人間らしさがあったねキャロルをつくる前に女房とふたりで アパートに住んでいてね。どさんこラーメンに行くのが 唯一の楽しみで…それで浮島というところが川崎にあってね そこへ二人でボンゴに乗って夜景を見に行って帰ってくる。 その時に長男がお腹に入っていたね。あの時代…。 この前も女房と話してたんですけど、あの時代が結婚して 最高の時だったね。悲しい話だけど…。」
矢沢永吉さんのキャリアが始まり、その力の源になったのは、間違いなくすみ子さんと子供たちだったということです。
すみ子への慰謝料は6000万?ポルシェ3台分
矢沢永吉さんは1989年にすみ子さんと離婚しますが、その手前、家庭を捨てて外で女を持ち、さらには子供の出産を許すという有様でありました。
1980年台の矢沢永吉さんは芸能界の長者番付けで1位を獲得するほどに稼いでいたと言うことで、慰謝料は凄まじい額となりました。
その額は、当時にしてポルシェ3台買えるぐらいとのことで、約6000万程だと予想されてます。
矢沢すみ子が2009〜2008年頃に死去?
矢沢永吉さんの下積みを支え、あの頃から幸せの全盛期だと認めさせた最高の女だったすみ子さん。
そんなすみ子さんが、少し前に亡くなったと噂になりました。
時期にして2008年から2009年頃で、当時、矢沢さんはメディアを避けライブ時期をズラすなどスケジュールに違和感があったそうです。
正式に公表はされていないので、噂でしかないです。
事実であれば58歳と若い時期に死去されたことになります。
矢沢永吉は離婚後もすみ子と子供たちとの交流を続けた。関連会社への勤務や役員
矢沢永吉さんは1989年に最初の嫁・すみ子さんと離婚してしまいましたが、その後も仕事関係で交流は続いていたそうです。
嫁のすみ子さんは矢沢さんの関連会社の役員として名前が残り、子供は矢沢さんのライブ映像を作ってリリースする会社に在籍していたそうです。
現在も勤めているか分かりませんが、父として子供達のことを気にかけていたことがわかりますね。
ちなみに長女の綾子さんには歯科医になったとの噂もあります。事実であれば学業の面でしっかりとサポートして、明るい将来を歩けるように協力を続けたのではないでしょうか?