お笑い芸人のタモリさんといえば、日本の芸能界が誇るレジェンドです。

これまでに「ミュージックステーション」「笑っていいとも!」「タモリ倶楽部」「ブラックタモリ」「トリビアの泉」など、多くの人気番組で司会を務めてきました。

長く日本の芸能界のトップに君臨してるタモリさんですが、実はかなり”遅咲き”であることはあまり知られていません。

タモリさんは大学を卒業せず、多くの仕事を転々とし、芸能界でデビューしたのは30代に入ってからでした。

なぜ、タモリさんは30代から芸能界に入ったのか?

そして、なぜ30代からのキャリアで現在の芸能界のトップまで上り詰めたのか?

若い頃からのタモリさんの経歴と共に辿ってみたいと思います。

タモリの経歴を年齢ごとに表でまとめる。両親と複雑な子供時代

1945年 生誕
1954年(小学3年生) 学校の帰りにワイヤーが目に刺さり失明
1965年(19歳) 早稲田大学第二文学部に入学
1967年(22歳) 学費滞納で早稲田大学を除籍
1970年(25歳) 同じ職場の年上の女性と結婚
1975年(30歳) 芸能界デビュー
1982年(37歳) ”笑っていいとも!”がスタート
1986年(41歳) 「ミュージックステーション」がスタート
2002年(57歳) 「笑っていいとも!」で「生放送単独司会世界最高記録」としてギネスブックに登録
2008年(63歳) 「ブラックタモリ」スタート
2014年(69歳) 「笑っていいとも!」終了。『生放送バラエティー番組 単独司会最多記録』としてギネス記録に認定

幼少期から個性的だったタモリ少年。子供の頃が一番大人っぽかった

タモリさんは1945年8月22日に福岡県福岡市南区にて誕生しました。

生まれ育った家庭は複雑で、祖父母が子供がいないけど欲しいということで、それぞれの親戚(祖母は弟、祖父は姪)でお見合いさせ、結婚して子供を授かったのです。

祖父母の親戚同士で生まれたのがタモリさんと姉さんということです。

幼少に時に両親は離婚し、タモリさんと姉は祖父母に育てられてました。

離婚した両親ですが、父は大学生の頃に亡くなり、母は2度の離婚を経験したそうです。

幼少期から一般家庭の概念のなかったタモリさんは、常識を疑うような大人びた子供だったそうです。

有名な話では、、幼稚園に入る時期に近所の幼稚園を外から見学すると、子供騙しのような歌や振り付けの遊びを見て”幼稚園に行きたくない”と拒否したというエピソードがあります。

タモリの経歴・学歴・プロフィール

芸名 タモリ
本名 森田一義(もりたかずよし)
生年月日 1945年8月22日
出身地 福岡県福岡市南区
身長 161センチ
血液型 O型
家族 両親とタモリと姉
出身小学校 福岡市立西高宮小学校
出身中学校 福岡市立高宮中学校
出身高校 福岡県立筑紫丘高等学校(偏差値72)
出身大学 早稲田大学第二文学部(除籍)
以前の仕事 保険の外交員。ボーリング場の支配人。喫茶店のマスター。旅行会社。

若い頃のタモリは仕事を転々。浪人して入学した早稲田大学を学費滞納で除籍

タモリさんの芸能界デビューは30歳と遅いです。

タモリさんは赤塚さんに見出されてメディアに登場するまでは、多くの職を転々としていました。

タモリさんは一浪して、名門・早稲田大学の第二文学部に入学。

大学ではモダンジャズの研究会に所属し、この頃に本名の”森田”をもじった”タモリ”というあだ名が付けられてました。

充実した大学生生活を送っていましたが、22歳の頃に仕送りでもらってお金を全て友人との海外旅行に使ってしまい学費を滞納。

旅行にお金を使い果たしてしまったタモリさんは、学費の滞納で除籍処分となってしまったのです。

大学を辞めた後は、保険屋、ボーリング場の支配人、喫茶店のマスターなど多くの職を転々とし、たまに上京してはバーでネタを披露していたのです。

福岡と東京を往復してネタを披露。赤塚不二夫との出会いで芸能界デビュー

若い頃のタモリさんは福岡で仕事をしながら、月1で上京し、バーのようなお店で素人芸人として即興芸を披露していました。

30歳に芸能界デビューと遅咲きなタモリさんですが、「バガボン」で知られる赤塚不二雄さんとの出会いがお笑い芸人・タモリさんを作ったのです。

赤塚さんが素人時代のタモリさんが働いてたお店にお客さんとして来て、タモリさんの芸に感動し、自身の番組にタモリさんを呼んだのがデビューのきっかけなのです

2008年に赤塚不二夫さんが死去した際、タモリさんの告別式での弔辞は”伝説として語り継がれています。

何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。

その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。

この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。

自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。

”タモリはあなたの代表作の1つ”という名言もありました。

いくら大物になっても、自分の恩師、原点を忘れずに大切にするタモリさんの姿が、世間では話題になり好感抜群でした。

タモリは子供の頃に右目を失明。サングラスを付ける理由

タモリさんといえば、黒のフレームのサングラスがトレードマークです。

テレビでタモリさんを拝見する多くの人が”なんでタモリさんはいつもサングラスしてるの?”と疑問に思うことでしょう。

実はタモリさんは小学生の頃に右目の視力を失ってしまい、その後に義眼を付けているのです。

失明してしまった理由としては、

タモリさんが小学3年生のときに下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけてしまい、針金の結び目が右目に突き刺さってしまったことです。

当時、すぐに治療したそうですが、最終的に視力は戻らなかったそうで、当初はかなり落ち込んだそうです。

それでもタモリさんは前向きに育ち、小学生の高学年になると友人たちの前でネタを披露するほど明るい少年時代を過ごしたのです。

若い頃のタモリはサングラスだけでなく眼帯や素顔の姿も

今ではタモリさん=サングラスというイメージがありますが、実は若い頃はたくさんのバリエーションを持っていました。

タモリさんのサングラスを外した素顔に興味ある方も多いと思いますが、若い頃はテレビに素顔で登場したこともあり、その頃の写真も残っています。

優しくて愛らしい顔立ちであります。

右目が義眼らしいのですが、素顔をみてる限り違和感は0です。

若い頃はサングラスではなく眼帯をつけてテレビ出演することが多くありました。

かなり男前に見えます。

サングラスだけになったのは、年齢的な部分が多く、ファッション性の都合だとされています。

ちなみに若手時代にサングラスを付けたまま先輩に挨拶をしたところ、怒られてしまったこともあったそうです。

タレント・堺正章が15日、日本テレビ系で放送された「ダウンタウンDX」に出演。デビュー前のタモリに説教をしていたことを告白した。

1975年に博多から上京したタモリ。堺は放送作家から「面白い芸をするヤツがいるから。(ネタを)見てよ」と言われて、タモリと初対面。ものまねネタを見たという。

堺はタモリの芸に全くピンとこず、「九州帰った方がいいんじゃないか」と本気でダメ出し。さらに、後にトレードマークとなったサングラス姿のまま“ネタ見せ”をしたため、ムッとして

先輩の前で芸やる時、サングラスぐらい取れよ!と説教したという。

当時はタモリさんがサングラスを付けてる理由が浸透していなかっただけに、勘違いさせてしまうこともあったみたいです。

私生活ではメガネ?まったく気づかれない理由

以前にあるタレントさんが、タモリさんと同じ蕎麦屋に居合わせていたのに気づかず挨拶が遅れたというエピソードを披露していました。

実はタモリさんはテレビに出演してる時以外は、あまりサングラスをつけないそうです。

かねてより、その引き出しの多さに定評があるタモリ。多忙ななか、いつの間に情報収集をしているのか。そんな疑問の“答え”が垣間見せたのは、翌日のことだった。この日、彼がいたのは東京都内にある武蔵小山の商店街。昨日同様、サングラスではなく眼鏡姿。マスクをしているが、これは5年ほど前から花粉症を発症したためだという。

ふと足を止めたのは、スーパーの前。その横にひっそりと立っていた朝日地蔵尊に目を止める。安産、厄除け、子育てなどにご利益があるお地蔵様だそうで、その由来が書かれた石柱などを10分以上も読みふけっていた。その間、スーパーには何人もの客が出入りしていたが、やはり誰ひとりとして気づく人はいない。結局、1時間ほどブラブラと街を散策。そんな隙間時間での“隠密行動”が、豊富な知識の源泉となっているのだ。

家ではメガネで過ごすことが多く、そのまま街に出ても全く気づかれないそうです。

あれだけ知名度のある一流芸能人なのに私生活に支障がないのは凄いことですね!

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