デヴィ夫人といえば、茶の間で人気の元大統領夫人です。
度々、デヴィ夫人の若い頃の美しさがネット上で話題になりますが、今日はデヴィ夫人の昔を年齢順に振り返ってみたいと思います。
また、スカルノ大統領の夫人だったことはよく知られてますが、第三夫人だったこと、インドネシアに渡るまでの努力、子供が生まれた後の亡命などは知らない人が多いので、その部分についても掘り下げてみたいと思います。
デヴィ夫人の本名(旧姓)は根本七保子!実は両親共日本人でハーフではない
デヴィ夫人といえば、エキゾチックな目元、色白で鼻筋や口の形が人形のように整った顔立ちがトレードマークです。
インドネシアのスカルノ元大統領の奥さんだったということで、デヴィ夫人を海外の方、もしくはハーフだと思っている方が多くいます。
しかし、実際は両親揃って純日本人で、デヴィ夫人本人も純日本人であります。
本名は”根本七保子”で、生まれも育ちも日本です。
初めて海外に渡ったのは19歳の頃です。
本名 | ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(旧姓:根本 七保子) |
生年月日 | 1940年2月6日 |
出身地 | 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布) |
家族構成 | 父(兵七郎)・母(政子)・弟(4人家族) |
デヴィ夫人の子供時代。中学生の頃から大人っぽかった!父母も美形
デヴィ夫人が生まれたのは東京都麻布です。
生まれたのは1940年と、戦争が激化する直前です。
父・兵七郎さんは大工でしたが、目の病で仕事が順調にできなかったそうです。
母・政子さんも足が悪く、パートに出れず内職の仕事で家計を支えていたそうです。
お嬢様育ちだと思われることの多いデヴィ夫人ですが、実は家庭は貧しく幼少期から母の内職を手伝うなど苦労してます。
ある時、家に入ってきた鳩を捕まえて夜の食卓に並べたり、デヴィ夫人が摘んできた野草を家族で食べるなど、想像を絶する貧困生活だったそうです。
それでも、両親共に美形であり、その遺伝子を受け継ぎ美少女に生んでもらったデヴィ夫人は、その自分のメリットを最大限に発揮します。
デヴィ夫人は中学の頃から大人っぽく先生など大人の男性にモテモテだったそうです。
また、当時から成績は優秀で、特に英語に関しては学年でトップの成績だったそうです。
この時から、海外の偉い人を落とす才能が垣間見れていたということです。
若い頃からのデヴィ夫人の経歴。資産と娘・カリナと孫のキランの関係
1940年2月6日 | 0歳 | 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。 |
1946年 | 6歳 | 港区立笄(こうがい)小学校入学。 |
1952年 | 13歳 | 港区立高陵中学校入学。成績優秀で英語は学年で一番の成績。 |
1955年 | 15歳 | 東京都立三田高校定時制進学。家計を助けるために千代田生命保険(現在のジブラルタ保険)に務める。新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演。 |
1956年 | 16歳 | 父死去。高校中退。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。 |
1959年 | 19歳 | 開発援助に伴いインドネシアに渡り、東日貿易の秘書としてインドネシア建国の父であるスカルノ初代大統領の元に就く。最初は普通の恋仲関係。 |
1962年 | 22歳 | スカルノ初代大統領と正式に結婚。(4人の夫人のうちの第3夫人)。母親がマスコミの取材をストレスに死去。実弟が自殺。 |
1965年 | 25歳 | 軍事クーデターでスカルノ大統領失脚。 |
1967年 | 27歳 | 第一子の娘・カリナを出産(スカルノにとって8番目の子供)。デヴィはフランスに亡命。 |
1970年 | 30歳 | スカルノ死去。遺産の相続は不明であったが、その後に第三夫人として財産分与されたとされる。 |
1974年 | 34歳 | 『GORO』の創刊記念号で、写真家・デイヴィッド・ハミルトンの撮影によるヌード写真を披露。 |
1980年 | 40歳 | インドネシアへ戻り、石油関連事業を興した。 |
1991年 | 51歳 | アメリカ・ニューヨークに移住。 |
1992年 | 52歳 | コロラド州でセルヒオ・オスメニャ第4代フィリピン大統領の孫娘・ミニー・オスメニャに侮辱されたと激怒したデヴィがシャンパングラスでミニーの顔面を殴打し、“顔に37針を縫う大ケガ”を負わせ、傷害罪で逮捕。禁固60日・罰金700ドルの実刑判決、34日間刑務所に収監された。 |
デヴィ夫人は中学卒業してすぐに就職。父の死去で夜のお店で働く
デヴィ夫人は実家が貧しかった為、中学校を卒業してすぐに就職しました。
就職したのは千代田生命保険(現在のジブラルタ保険)です。
高校は定時制で、朝から夜まで保険屋で働き、夜は高校に通うという生活でした。
さらに驚くべきは、仕事の休憩中の1時間を喫茶店でのバイトに使う、土日の休みはコーヒーショップで働いていたのです。
また、デヴィ夫人は「東芸プロダクション」に研究生として入団し、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演するなど、演技の勉強もしていました。
忙しながらも順調に歩みを始めていたデヴィ夫人ですが、16歳になった頃に父親が死去してしまいます。
結果的にデヴィ夫人は高校を中退して、夜のお店で働くようになります。
ナイトクラブで英語と紳士の接客を磨き、インドネシアで大統領を落とす!
高校を中退した16歳のデヴィ夫人は、家族を養うために更なる高収入を求めます。
デヴィ夫人は17歳の頃からアメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカーさんと知り合いたくさんの高級店に連れて行ってもらい、赤坂にある有名高級クラブ「コパカバーナ」に出入りするようになり、オーナーだった長尾久子さんに気に入られ働くことになります。
デヴィ夫人は持ち前の英語力と容姿の良さですぐに”プリンセス”と呼ばれ、お店の人気者となりました。
本人はお店をこう評してます↓
お客さんの90%が外国人。世界の社交場のような名声を得ていて、当時の大学新卒の給与が1万ぐらいだった時代に、その時のテーブルチャージは、フランク・シナトラが歌った夜は1人10万円。
どのぐらい豪華なクラブだったかお分かりかしら。
新聞の朝刊に米上院議員のテッド・ケネディ氏が来日したとあると、その夜には彼の姿がそこにあるぐらいの世界の社交場。ここで働く女性はファッション誌から抜け出したような人たちばかり。
そして、ここへ遊びにいらっしゃる紳士たちは女性の椅子を引き、飲み物をオーダー、ダンスをする時は手を差しのべる、すべてがレディーファースト。わたくしは美しい花、そう「レディ」に憧れを抱いておりました。
ちなみにデヴィ夫人がこのお店に働くようになった目的には、海外のお客さんが多いということで、”英語力を磨いて人脈も作って海外で輝く”という狙いもあったそうです。
結果的に19歳になった頃に開発援助に伴いインドネシアに渡ることとなり、その夢は実現することとなります。
スカルノ大統領の秘書として働き第三夫人に!母と弟の不幸
1959年にインドネシアに渡り、スカルノ大統領の秘書として務めることになったデヴィ夫人。
スカルノ大統領は、デヴィ夫人を秘書として迎えると、圧倒的美貌と、心配りの素晴らしさに惚れ、すぐに心を奪われます。
そして、二人はすぐに恋仲になり1962年に結婚を果たします。
プロポーズは移動中の飛行機の中で夕焼けを眺めていたときに、
「私のインスピレーションとなり、力の根源となって、私の人生の喜びとなってください。」
と言われたそうです。
こうして、若き日のデヴィ夫人は、22歳にしてインドネシアの第三大統領夫人となったのです!
一緒に写ってる写真はどれも幸せそうです!
しかし、日本のマスコミはデヴィ夫人がスカルノ大統領と結婚したことを好奇の目で見つめ、デヴィ夫人の実家に過剰な取材をしに押しかけるのです。
若い頃のデヴィ夫人の幸せと悲劇。母と弟の死去
見事にスカルノ大統領のハートを射止め、幸せの絶頂だったデヴィ夫人。
しかし、結婚した同じ年(1962年)に、不幸も一緒にやってきます。
なんと、スカルノ大統領の夫人になったデヴィ夫人を世間が面白がり、デヴィ夫人の実家に過激な取材陣が押し寄せたのです。
幸せを祝福する声だけでなく、生い立ちなどを意地悪に書き立てるマスコミに、母は疲労困憊。
結果、母はストレスから病死してしまうのです。
また、弟も母に続くように自死してしまったのです。
1962年の1年は、デヴィ夫人にとって最高の幸せと、その逆を両方味わうことになった複雑な一年でありました。
スカルノ大統領失脚。娘・カリナの出産と亡命。孫・キランの現在
1962年に結婚したデヴィ夫人とスカルノ大統領ですが、それからわずか3年後の1965年に軍事クーデターによって失脚してしまいます。
短い期間の大統領夫人の立場でありましたが、失脚した後も二人の愛情は冷めず、失脚して2年後の1967年に子供が誕生します。
1967年に生まれた第一子は女の子で名前は「カリナ・サリ・デヴィ・スカルノ」です。
27歳の若さでの出産でありました。
デヴィ夫人は安全に子供を産む為に、カリナさんの出産は日本でした。
そして、カリナさんを出産してすぐにフランスに亡命します。
旦那であるスカルノ元大統領ですが、カリナさんがまだ3歳の1970年に死去します。(死因は暗殺や病死など諸説あります)
娘のカリナさんは日本生まれ、フランス育ちということになります。
フランスで仲良く暮らしていた妻子ですが、カリナさんが11歳の頃に、デヴィ夫人のみがインドネシアに渡ると、カリナさんは”見捨てられた”と勘違いし、その後長く不仲だったそうです。
娘・カリナをフランスに置いた理由は”安全”と”莫大な資産”のため?
11歳の頃に母と離れ離れになってしまったカリナさん。
その後は長く母のことが嫌だったそうです。
しかし、今になってデヴィ夫人が娘を残してインドネシアに渡った理由を知ると、当時の複雑な背景が浮かびます。
当時のデヴィ夫人は死去したスカルノ氏の資産を相続すること、そして現地での石油関連事業に関わる目的があったのです。
本当は娘も連れて行きたかったけど、軍事クーデターが起きたばかりのインドネシアは治安が悪く、ましては元大統領の娘であるカリナさんが危険な目に遭うことは分かりきっていたのです。
つまり、デヴィ夫人がカリナさんをフランスに残してインドネシアに渡った理由は、
・娘を養う資金のため
・本当は連れて行きたかったが治安悪かった
ということになります。
複雑な事情で妻子の仲は良好ではなかったのですが、2007年にカリナさんが孫を出産すると、孫のキラン君の可愛さが二人の仲を縮めたそうです。
孫のキランのイケメンぶり。デヴィ夫人と娘・カリナの不仲解消
デヴィ夫人と離れて暮らしていた娘のカリナさんですが、長く付き添っていてくれたメイドさんの努力もあって、カリナさんは教養のある立派な大人に育ちました。
2005年に大手金融機関「シティバンク」の欧州・中近東・アフリカ地区CEO(最高経営責任者)である、オランダ人のフレデリック・F・シーガスさんと結婚を果たします。
年収は日本円に直して約数億という正真正銘の超大金持ちのエリートであります。
カリナさんはオランダ人のエリートとの間に2007年5月26日に第一子の男の子(デヴィ夫人にとっては孫)が誕生します。
男の子の名前はキラン君です。
デヴィ夫人は孫のキランくんが生まれたばかりのときに、
「目が赤ちゃんではなかった。まるでイエス・キリストの目のようだった。」
と語るほどに、その美しさに圧倒されたそうです。
孫の誕生以降、険悪だった娘との仲も良くなったそうです。
キラン君が大きくなると、デヴィ夫人はブログにキラン君を頻繁に登場させました。
当時からブログの読者から”信じられないぐらいイケメン”と大人気でありました。
やがて日本のメディアでも孫のキラン君は紹介され、一時期ネットの人気者となりました。
キラン君は見た目が良いだけでなく頭もかなり良いみたいです。
中学生の時点で英語、インドネシア語、ラテン語、日本語、オランダ語、フランス語の合計6か国語話を操ることができるそうです。
見た目が良くて語学が得意となると、若い頃のデヴィ夫人そっくりですね!
デヴィ夫人の資産がすごい?旦那の遺産・石油事業・タレント業
幼少期は貧しい家庭で苦労したデヴィ夫人ですが、中学生の働ける年齢になってからは懸命に働いてお金を稼ぎ続けました。
高校を中退して夜の世界に入った時点で大金持ちでありましたが、その後の大統領夫人になるなど、女性として最大級のステータスを手に入れました。
スカルノ大統領が死去した後の遺産については、しっかりと相続した説と、実は相続できなかったという説があります。
しかし、旦那さんの遺産がなかったとしても、デヴィ夫人はインドネシアで石油事業に関わり成功しており、それだけで一生遊んで暮らせるぐらいのお金を稼いでいるのです。
現在までにタレント業も好調なので、実業家としての収入を合わせると、凄まじい金額を稼いでいることが予想できます。
総資産は60億以上?渋谷の11億の自宅とパリ・ニューヨークの不動産
青春時代から母を支えようと仕事やアルバイトに勤しんだデヴィ夫人。
若い頃の苦労が報われて、現在は大金持ちです。
現在のデヴィ夫人の資産は60億以上はあると予想されます。
日本の渋谷の一等地にある自宅だけでも11億。
パリやニューヨークなど海外にある不動産だけでも30億以上はあるとされてます。