ビートたけしさんといえば、日本が世界に誇る映画監督であり、アジアを代表するコメディースターです。
年齢は2022年時点で75歳になったビートたけしさんですが、芸歴を若手時代から計算するとなんと50年以上です!
現在ではコメンテーター、司会業が中心のビートたけしさんですが、コメディアン、映画監督としての活躍を知らない若者もいるみたいなので、若手時代からの経歴を年齢ごとに振り返ってみたいと思います。
また、ネット上では若者中心に「なんでたけしさんって顔に癖があるの?」と疑問の声が多くあるので、たけしさんの顔が変化した1994年のバイク事故についても詳細に書いてみたいと思います。
ビートたけしのバイク事故。大怪我と事故場所の真相
ビートたけしさんは1994年の45歳の頃、都内でバイク事故を起こし大きな怪我を負いました。
運よく一命は取り留めたものの、「頭蓋骨陥没骨折」など重傷を負ってしまったのです。(普通なら即死レベルの事故だったそうです)
たけしさんは当時の事故の影響で、顔の一部が変形してしまいました。
事故した翌日、各報道で大きく取り上げられ、病院に搬送されて2ヶ月後に退院し記者会見を開いた際には顔面麻痺した状態で姿を表せ、世間に衝撃を与えていました。
目の焦点は合っておらず、口の形は曲がっており、以前とは違った表情になっており、とても痛々しい印象でありました。
当時の退院会見では、
治らなかったら、芸名を顔面マヒナスターズにするよ
(死について考えることができたのは)いい勉強になった
(事故は)軍団がブレーキに仕掛けしたんじゃねえかと思ってるんだ
「頭に入っているボルトのせいで金属探知機に引っかかる」
などユーモラスな発言をして余裕を見せました。
しかし、後になって当時のバイク事故に不審な点が多くあったことと、たけしさん本人がうつ状態だったことを告白したことで、とても闇深い期間だったことがわかります。
たけしのバイク事故の真相。夜中にサングラスに赤のスクーター。ブレーキ跡なし
たけしさんは事故当時のことを、
その部分だけはほとんど記憶がない。事故は自分の不注意だった。
と振り返り、さらには当時は鬱に近いメンタル状態だったことを明かしています。
たけしさんがバイク事故を起こしたのは1994年、8月2日の深夜1時40分です。
当時、原付バイクで東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中、ガードレールに激突し、4メートルも飛ばされ、その後に引きずられ、そのままいびきをかいて倒れていたそうです。
不審だと思われる点は、たけしさんが曲がりきれなかったカーブというのが、実はそこまで急ではなかったということです。
そして、お酒を飲んでおり、夜中なのにサングラス、しかも自分の所持品ではない赤のスクーターに乗っていたということです。
当時、鬱に近いメンタルだったということで、一部では「自殺だったのではないか?」という都市伝説まで残っています。
また、赤のスクーターは前日に運転手を務めるたけし軍団員、負古太郎(まけ ふるたろう)に買い与えた物だと発覚していますが、当時は恋人である”細川ふみえにプレゼントするために会いに行った”との説もありました。
交際していた恋人・細川ふみえに会いに行った?
多くの説が残っている中で、最も有望な説は、当時の彼女”細川ふみえ”に酔った勢いで会いに行った説です。
当時、たけしさんが病んでいたのも、交際していた細川さんとの恋のもつれだったのはでは中?とされています。
その日たけしさんがスクーターを走らせた場所と方向は、細川さんは翌日のテレビ出演のため赤坂のホテルと一致してるのです。
ちなみに、細川ふみえさんは直近でビートたけしさんと週刊誌に撮られましたが、
たけしさんは私のマンションに一度も来たこともないし、場所さえ知らないんです
と交際を否定。
それでも、週刊誌にたけしさんのマンションに出入りしてる姿をバッチリ撮られていたということで、交際の信憑性は強く当日に彼女に会いに行った説は有力です。
ビートたけしの経歴(年齢順)。若い頃の顔と相方
1947年 | 0歳 | 東京都足立区に生まれる |
1965年 | 18歳 | 足立高校卒業。明治大学入学 |
1972年 | 25歳 | 浅草のフランス座で芸人見習いとして働き始める |
1973年 | 26歳 | ビートきよしと「ツービート」結成 |
1975年 | 28歳 | 「ライバル大爆笑!」でテレビ初出演 |
1980年 | 33歳 | 女性漫才師の幹子氏と結婚 |
1981年 | 34歳 | 「オレたちひょうきん族」出演開始 |
1986年 | 39歳 | フライデー襲撃事件 |
1989年 | 42歳 | 「その男、凶暴につき」映画監督デビュー。 |
1993年 | 44歳 | 映画「ソナチネ」が世界で高評価 |
1994年 | 45歳 | バイク事故。 |
1997年 | 48歳 | 映画「HANA-BI」でベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞 |
2000年 | 51歳 | 映画「バトルロワイヤル」出演。 |
2004年 | 55歳 | 明治大学の知名度アップに貢献したとして「特別卒業認定証」 |
2010年 | 61歳 | フランス芸術文化勲章コマンドゥール受賞 |
2018年 | 69歳 | 旭日小綬章を受章。オフィス北野から独立しパートナーと立ち上げたT.Nゴンに所属。 |
ビートたけしの幼少期から学生時代。偉大な母
ビートたけしさんは現在、お笑い芸人として多くのバラエディ番組で司会を務め、さらには映画監督としても活躍されています。
若い方からすると、”たけしさんの本業ってなに?”と疑問に思うことでしょう。
たけしさんの若い頃からの経歴を辿ると、お笑いがルーツであることがわかります。
学生時代のエピソードを調べてみると、とても優秀な子供だったことがわかります。
また、裕福ではないものの母親は人格者で、家庭環境には恵まれていました。
家は貧しいものの、母は食費を削ってまで参考書を買い、兄弟全員を大学まで進めました。
たけしが成功した後は、実家に戻るたびに、
「今までお前を育てた費用だから」
「水道の修理代をくれ」
「病院代をくれ」
と、お金を無心し関係が悪化しますが、母が病気で倒れて見舞いに行った際に姉から自分名義の通帳を渡されて、そこに今まで自分が母に渡していたお金が全部貯蓄されていたそうです。
たけしは亡くなった今になっても「母親には敵わない」と語るほどに、素晴らしい人間で、後々のたけしさんのキャリアアップに貢献された方でした。
若い頃のビートたけしは明治大学を辞めて芸人の下積み
ビートたけしさんは子供の頃から芸術肌で、図工の時間に圧倒的な作品を作っては先生や周りの友達を驚かせていたそうです。
また、運動神経も良くて野球部で活躍したりボクシングを習っていたこともあったそうです。
母親の教育のお陰で貧しいながらも明治大学の機械科(現在の理工学部)に進学します。
猛勉強の末に進学した大学でしたが、2年で辞めてしまいました。
当時のことをたけしさんは、
学校を辞めたのは、(自分にとって)けっこうな自殺だったし、母殺しだと思うよ。おふくろは内職して、昼は(日雇いの土木労働を意味する)ヨイトマケやって、夜はブリキのおもちゃ作って、大学行かせたんだから…。食い物まで制限して頑張った母ちゃんを裏切るのは心が痛んだ。ただ、教職課程を取っているから、今から教育実習やれば高校の物理は教えられるんだよ。
と振り返っています。
母親は「二度と帰ってくるな」と勘当されたそうです。
その後にお笑い芸人になることを決めて長い下積み生活を過ごします。
若い頃のビートたけしさんは、普通の若手お笑いコンビのように劇場やお笑い番組でネタを披露していました。
若い頃のビートたけしには相方”きよし”がいた(ツービート時代)
現在では一人でメディアに出演するのが当たり前ですが、若手時代のビートたけしさんは”ツービート”というコンビを組んでおり、”ビートきよし”という名の相方がいました。
ビートきよしさんの本名は「兼子二郎(かねこ にろう)」さんで、たけしさんとはたけしさんがフランス座でエレベーターボーイを経て後輩の幕間芸人となった時期に、きよしさんから誘って「ツービート」を結成しました。
ツービートは小さな劇場や夜のお店などでネタを披露していましたが、素行はかなりヤンチャだったみたいです。
若い頃のたけしさんは大学を辞めてから長く下積み生活を送っていましたが、1980年からの漫才ブームが始まり、ツービートは毒説漫才を武器にテレビの人気者となりました。
ビートたけしの若い頃は色気があってカッコよかった。映画でも才能を開花!
たけしさんは当時から男性、女性共に支持されておりました。
どこか危なっかしいギラギラした雰囲気が色気があって素敵です。
たけしさんは1989年の42歳の頃に初めての映画「その男、凶暴につき」を製作。
映画監督としては勿論、役者としてもクレイジーな演技が世界で受け入れられました。
バイク事故を起こした後は、俳優としての仕事に支障が出ないか心配されていましたが「HANA-BI」や「バトルロワイヤル」「座頭市」では以前とは変わらない危なっかしい男を見事に演じました。
最近では映画監督としての仕事が減ってしまいましたが、世界中にたくさんファンがいるということで、新作は常に期待されています。