黒柳徹子さんといえば、芸歴が50年を超える大ベテランのタレントです。
多くは「徹子の部屋」や「世界不思議発見」のイメージが強いことでしょう。
若い頃からの黒柳徹子さんの経歴を辿ってみると、デビュー当時は女優だったことが分かりますし、トーク力は20代の頃から健在だったことが分かります。
知れば知るほど、実はすごい人であり、美人である黒柳徹子さん。
今日は黒柳徹子さんの若い頃や昔のことについて書いてみたいと思います。
華麗な家系図や、長きに渡り結婚しない理由、昔の彼氏、旦那さんのような存在の男性についても書いてみたいと思います。
子供の頃の黒柳徹子。華麗な家系図!落書きで名門小学校を退学
黒柳徹子さんは1933年に東京都の赤坂に生まれ育ちました。
お父さんはバイオリストの黒柳守綱さん、母親は声楽科の黒柳朝さんです。
両親揃って音楽家ですが、黒柳徹子さんも幼少期にピアノを習い、大学は声楽科に所属するなど、一時期は音楽の道を目指していました。
黒柳徹子さんは子供の頃からとてもおしゃべりで悪戯好きだったそうで、小学1年生の頃に自身の落書きが原因で退学になったこともあります。
彼女が退学になった小学校は尋常小学校で、退学になった後はトモエ学園に転校しました。
トモエ学園は生徒の個性を大切する良き学校であり、黒柳徹子さんの肌にも合っていたそうです。
子供の頃は周囲に将来は女スパイになりたいと語っていたそうですが、先生に「そんなおしゃべりだとスパイにはならないぞ」と言われ落ち込んだそうです。
中学生になる頃には第二次世界大戦が過激になり、黒柳さんは東京大空襲をきっかけに青森県三戸郡(現・南部町)の諏訪ノ平に疎開しました。
第二次世界大戦の話になると、実は誰もが苦労したというわけではなく、富裕層は地方で普段で同じような暮らしをしていたという話を小耳に挟みますよね?
実は黒柳徹子さんも、華麗な家系図の通りに疎開して終戦まで迎えています。
終戦してわずか1年後には名門・女子大学「香蘭女学校」に入学しています。
若い頃の黒柳徹子の経歴(年齢ごと)
1933年8月9日 | 0歳 | 東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂に生まれる。 |
1940年 | 7歳 | 落書きが理由で尋常小学校(現:公立小学校)を1年生の時に退学。「トモエ学校」に転校。 |
1945年4月 | 12歳 | 東京大空襲をきっかけに青森県三戸郡(現・南部町)の諏訪ノ平に疎開。 |
1946年 | 13歳 | 香蘭女学校入学(5年制の中学・高校) |
1951年 | 18歳 | 東洋音楽学校声楽科(現在の東京音楽大学音楽学部声楽科)入学。 |
1954年 | 21歳 | ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 - 1957年)で主演。 |
1958年 | 25歳 | NHK放送劇団に所属。テレビ女優第1号としてNHK入局。「海は生きている」で女優デビュー。 |
1958年 | 25歳 | 『第9回NHK紅白歌合戦』で自身初となる紅組司会を務めた。 |
1959年 | 26歳 | テレビドラマ「夜の仲間」で初出演。 |
1961年 | 28歳 | 第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞。 |
1971年 | 38歳 | 1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームに生活する。留学中に洋服と和服の両方に合う”タマネギヘア”を須賀勇介と考案。 |
1976年 | 43歳 | 「徹子の部屋」スタート。 |
1978年 | 45歳 | 「ベストテン」スタート。 |
1986年 | 53歳 | 『世界・ふしぎ発見!』スタート。 |
2009年 | 76歳 | 有吉に「クソババア」とあだ名を付けられる。 |
若い頃の黒柳徹子が美人過ぎる!可愛い20代、髪型が完成した30代。
黒柳徹子さんというと、お茶の間でたくさん喋る個性的な髪型をしたオバサンというイメージがほとんどでしょう。
しかし、実は若い頃は売れっ子女優であり、司会業もできる”超美人”なスターだったのです!
黒柳徹子さんは終戦を迎えた後の1946年に香蘭女学校に入学し、当時はオペラ歌手を目指して声楽科に所属します。
しかし、オペラの歌詞がなかなか覚えられないということで、子供に絵本を読み聞かせる仕事へ路線を変更します。
オペラを諦めたのが功を奏したのか、応募者6000人のNHK放送劇団入団オーディションに合格。
そこから黒柳徹子さんの芸能界へのキャリアが始まります。
当時の黒柳徹子さんはテレビでドラマが始まった頃の女優。つまり、後にも先にもテレビ女優に黒柳徹子さんよりも先輩は存在しないということです!
売れっ子女優だった黒柳徹子さんは週に7本から8本の作品に出演するほど多忙を極め、ある時期に過労で倒れてしまったこともあったそうです。
仕事に穴を開けたくない黒柳徹子さんは我慢して仕事を続けていましたが、ある時期に限界が訪れ、1ヶ月の入院を余儀なくされたそうです。
黒柳徹子さんの才能は女優業だけでなく、司会業でも花開きました。
若干25歳で紅白歌合戦の司会を務めると、それから数年続けて紅白の司会を担当しました。
さらには27歳の頃には自身が司会の番組「夢で逢いましょう」が人気番組となり、タレント・司会としての地位も確固たるものにしたのです。
20代にして女優としても、タレントとしても成功されたのは、後にも先にも黒柳徹子さんだけです。さらには言えば、その後に半世紀も業界でトップを張っているのですから本物です。
30代になっても元気で愛くるしい姿は変わらず、おしゃれで美しい外見のギャップに多くの女性が憧れました。
30代の半ばになると、ある舞台に出会った縁で留学することを決め、現在のトレードマークとも言える玉ねぎヘアーを完成させます。
黒柳徹子のニューヨーク留学時代が可愛過ぎる?若い頃のおしゃれ姿
黒柳徹子さんは37歳の1970年に『スカーレット』という舞台に出演します。
その出演したブロードウェイでは、作曲家のハロルド・ロームさんと仲良くなります。
ある時期、黒柳さんは親しくなったハロルド・ロームの夫人・フローレンスから、「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」と留学することを誘われます。
気持ちの良い招きを受けた黒柳徹子さんは、ニューヨークへの留学を決意します。
黒柳徹子さんは1971年9月から1年間ニューヨークへ留学しました。
留学していた当時、セントラル・パーク西隣のワンルームで生活していたようです。
現在のトレードマークになっている髪型は、現地で出会った日本人ヘアメイクアーティストの須賀勇介のアイディアを交えつつ完成させたのです。
髪型のテーマとしては、”和服にも洋服にも合う髪型”というもの。
実際にニューヨークで和服姿で写真を撮っており、今見ても洗練されたヴィジュアルとなっています。
ちなみに黒柳徹子さんが日本へ帰国したのは1年後の1972年ですが、その時期にパンダが日本に初めて来た日の記念に撮影した写真があります。
これが70年代初期のアラフォーのルックスだと思うと、黒柳さんの美貌がどれだけずば抜けていたか分かると思います。
黒柳徹子が結婚を考えた2人の男。旦那と呼んだ”ジャニー喜多川氏”
20代で芸能界に入り、常にトップを走ってきた黒柳徹子さん。
10代の頃から美貌に溢れ、有名人になった後も男性に困ることはなかったそうです。
そんな黒柳徹子さんも、もうすぐ90歳になろうとしてますが、未だに独身です。
決して結婚を避けていたわけではなく、過去に結婚することを真剣に考えた男性が2人いたそうです。
最初に結婚を意識したのは、20代前半の頃に交際していた男性。その男性に思い切って結婚について打ち出してみると、男性に「結婚してもいいけど、結婚ってそんなに面白いものじゃないよ」と言われ、黒柳さんは仕事に没頭しようと決意したそうです。
そして、2回目に結婚を意識した男性とは30代で出会いました。
海外の方で長く遠距離恋愛をしていたそうで、交際暦はなんと40年!年に1回か2回しか会えなかったのですが、愛情は冷めず、いつかは彼と結婚すると思っていたようですが、結局は死別してしまったそうです。
ちなみに、その黒柳徹子さんが長年交際していたという海外の方は、ブルガリア人のピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(Alexis・Weissenberg)さんではないか?と言われています。
噂になっている理由としては、1982年にワイセンベルクさんが来日された際、ワイセンベルクさんは「徹子の部屋」にゲスト出演されていたほか、ふたりの距離があまりにも近く、結婚が噂された時期があったからです。
黒柳さんがニューヨークに留学されていた38歳の時、その外国人の彼(42歳)と知り合い、当時の彼に「一緒にパリに来てくれないか」と言われたそうで、ピアニストとしてフランスで仕事をすることもあった彼である可能性は高いです。
また、黒柳さんの両親が音楽家であったこと、黒柳さん自身もピアノを習い、学生時代はオペラ歌手を目指していた経歴からも、ふたりの相性はとても良さげです。
恋愛よりも友情が濃かった黒柳徹子。仕事する女の鏡
恋愛よりも仕事が濃い人生である黒柳徹子さんですが、長いキャリアの中で有名人とのスキャンダルはほぼありませんでした。
恋仲の噂にこそはならないものの、友情が濃く、まるで夫婦のように思われた男性有名人が2人がいます。
一人目は永六輔さんです。
黒柳さんと永六輔さんは40年以上も友達で、頻繁に遊んだりしていたそうです。
2002年に永六輔さんの最愛の妻が死去すると、永六輔さんは冗談で「黒柳徹子と結婚するかも」と仰ったそうです。
永六輔さんが死去された際には、黒柳徹子さんは、まるで自分の旦那さんが亡くなったように悲しんでいたそうです。
2人目はジャニー喜多川さんです。
経歴の古い二人は芸能界を初期から知っている有数の親友関係でありました。
2019年にジャニーさんが死去すると、黒柳さんは「まるで旦那が亡くなったみたい」と悲しみました。
東京ドームでの追悼イベントにも姿を見せ、とても悲しそうにしていたそうです。