80年代にコメンディの世界で成功し、90年代には映画の世界でワールドワイドな活躍を見せたビートたけしさん。
”世界の北野”として国内ではヒーロー的な存在であります。
そんなビートたけしさんですが、私生活について調べてみると、やはり魅力的でありました。
80年代に同業者の女性と結婚し、現在までの2人の子供を儲けてますが、その後に他所で作った女性関係で幾度もトラブルを起こしています。
また、ツービートとしてブレイクする以前から師匠であった深見千三郎さんについて調べてみると、現在のまでのたけしさんの破天荒な生き様は彼の影響であることがわかります。
今日はビートたけしさんの家族と、若手時代にお世話になった師匠の深見千三郎さんについて書いてみたいと思います。
ビートたけしと元嫁・幹子との間の娘・井子と息子・篤。子供は何人?
ビートたけしさんの初婚は1979年です。
お相手は同じ漫才師であった幹子(みきこ)さんでした。
幹子さんは当時、女流漫才師「ミキ&ミチ」として活躍。
当時の芸名は”内海ミキ”でした。
結婚した当時のビートたけしさんは漫才ブームの前で、まだまだ売れっ子ではなく、あまりモテなかったそうです。
成功する前に出会った女性と結婚し、その後に40年以上も夫婦関係を続けたのだから、たけしさんの温情の深さは本物です。
たけしさんと幹子さんは新婚ホヤホヤだった昭和56年の頃に、当時のたけしさんの冠番組「ひょうきん族」で漫才を披露してます。
今では考えられない演出ですね!当時はとても仲良しだったことが伺えます。
たけしさんは1979年に結婚した幹子さんとの間に、1981年に長男の「篤」、1982年に長女の「井子(しょうこ)」が誕生してます。
ビートたけしの息子・北野篤。現在の仕事は広告プランナー?(博報堂ケトル)
名前:北野篤(読み「きたの あつし」)
生年月日:1981年
職業:広告プランナー(勤め先「博報堂ケトル」)
北野篤さんの仕事は、もともとはタワーレコードでバイヤーをしていましたが、2010年に嶋浩一郎さんに誘われて、嶋さんが創立した「博報堂ケトル」に転職しています。
大手の広告代理店である博報堂ケトルですが、篤さんは世界柔道やプロ野球の交流戦など著名なイベントの広告に携わっています。
ビートたけしの娘・北野井子。現在までに女優や歌手の仕事。出産した子供はたけしの養子に?
名前:北野井子(読み「しょうこ」)
生年月日:1982年
職業:女優、歌手。
ビートたけしさんの長女の井子さんは、過去に芸能活動をされていたことで有名ですね。
井子さんは子供の頃から芸能人になるのが夢で、1997年の15歳の頃に父の協力で父の映画「HANABI」に出演しました。
父の映画が世界で話題になったのと同時に、娘の井子さんの存在も話題となりました。
映画デビューして翌年の1998年にはXのYOSHIKIさんんよるプロデュースの元、歌手デビューを果たしました。
楽曲は見事にヒットしますが、ヒットから1年後の1999年には活動休止を発表し、海外留学。
わずか2年間の芸能活動でした。
辞めてしまった理由は、父の力があまりにも強烈でトントンと成り上がっていく人生が怖かったのかもしれませんね。
2004年に調理師の男性と結婚し、1年後の2005年3月9日に第一子の女の子を出産しますが、後にこの時の孫をたけしさんが養子縁組で受け入れて、たけしさんの子供になっているとされています。
1990年に愛人との間に隠し子?フライデー襲撃事件の頃の彼女
ビートたけしさんといえば、1986年にたけし軍団を率れ愛人に執拗な取材で怪我をさせたフライデーを襲撃するという事件を起こします。
実はこの頃に交際していた女性との間に、隠し子がいると言われています。
隠し子は1990年に誕生してるということで、嫁・幹子さんとの間に生まれた子供たちよりもひと回り年上ですね。
たけしさんは1991年に隠し子を認知し、その子が大きくなるまでに養育費を払い続けていたそうです。
隠し子が現在何をしているのか不明ですが、自分の本当の父親がビートたけしなんて恐れ入ることでしょう。
2019年に幹子と離婚し2020年に愛人と再婚。現在の嫁との間に子供はいない
ビートたけしさんは2019年に40年以上連れ添った嫁・幹子さんと離婚しています。
昔から常に愛人がいる状態で、夫婦の形としては変則的でしたが、離婚することがながったので、特殊な愛の形として世間に受け入れられていました。
2019年に離婚することが決まった際には、多くの業界人の方が驚いています。
多くの財産を前もって渡したということで、たけしさんは「すっからかん」だと仰っていました。
離婚した翌年の2020年には早くも再婚。再婚した相手は、新しい事務所のマネジメントしてる女性で、長く愛人というポジションの方でした。
現在までにその女性との間には子供は生まれていませんが、以前から「今のねぇちゃんが一番良い」と発言するなど、たけしさん的には過去で一番のお気に入りだそうです。
ビートたけしの子供まとめ。全員で4人説が有力
1981年(嫁・幹子) | 長男・篤 |
1982年(嫁・幹子) | 長女・井子 |
1990年(愛人) | 不明 |
2005年(娘・井子の養子) | 女の子(名前不明) |
ビートたけしの師匠・深見千三郎の左手。孤独な火事での死去
ビートたけしさんといえば、”たけし軍団”と呼ばれる弟子の集団を率れたりと、多くの後輩に慕われてるイメージがあります。
そんなたけしさんにも、売れない若手時代にお世話になった師匠が存在するのです。
ビートたけしさんの師匠だった人物というのは、かつて存在したフランス座の支配人であり座長の深見千三郎さんです。
たけしさんと深見さんは、たけしさんがまだフランス座でエレベーターボーイとして働いていた25歳の頃に出会いました。
たけしさんが「ツービート」を結成して、テレビで漫才を披露するようになると、深見さんはたけしさんをフランス座出禁にして破門にしますが、その後にたけしさんが漫才ブームを作り芸人の地位向上に貢献すると、破門は解かれたそうです。
破門自体は解かれていたそうですが、深見さんは不器用な性格だった為に、たけしさんの方からイキな歩み寄りがあり、なんとか師弟関係が続いた格好だったそうです。
ある時、たけしさんがフランス座を訪れた際、深見さんは「何しに来やがった馬鹿野郎この野郎、元気か?」「来るなって言ったろう馬鹿野郎、腹減ってないか?ラーメンでも食うか?」と言ったエピソードが有名ですね。
現在のたけしさんの口癖の「馬鹿野郎」は、きっと深見さんの口癖が移ったのでしょう。
ちなみに深見さんの芸人としての座右の銘は、
「芸人は舞台を降りたらかっこいいと言われるようにしろ」
「芸人は笑われるのではなく、客を笑わすようにしろ」
「歌も踊りもできない芸人は本当の芸人とは呼べない」
です。
たけしさんが目指す漫才師の姿と似ているので、影響は現在も続いてると思われます。
深見千三郎はタバコの不始末が原因の火事で死去。漫才引退以後は化粧品会社勤め
ビートたけしさんの師匠である深見千三郎さんですが、最期はとても悲惨でありました。
深見さんが亡くなったのは59歳という若い時期ですが、死因は”火事”による焼身でした。
火事が起きたのは1983年の2月2日の夜中です。
浅草にある深見さんのアパートから火が出て、お酒に酔っていた深見さんは逃げ遅れ、玄関先でそのまま亡くなりました。
火事の原因はタバコの不始末だとされています。
たけしさんは深見さんの遺体とご対面したそうですが、全身が焼けた深見さんは両手で抱えることができるほど体が小さく縮小していたそうです。
当時の深見さんは漫才師を辞めて、化粧品会社に勤めていたそうですが、毎日お酒に浸っていたのは、お笑いの世界から足を洗った寂しさを紛らわす為だったのではないか?と言われています。
たけしさんは師匠の深見さんの死について、
「芸人としてはパッといなくなるのもかっこいいなと思った。」
「誰かに悲しまれることが嫌いな人だし、おとっつぁんらしい死に方だった」
と、サッと辞めて野垂れ死んでいった姿を、必ずしも悲しいとは思っていない様です。
後にたけしさんは、
オレは学生やめちゃおうと思って、浅草の芸人になろうと思ったら、ほとんど自殺に近いですよね。もう諦めたっていうかね。
だけど、浅草っていうところは、そこで野垂れ死しても妙なロマンがあって、それが保険なんですよ。そこで全然、金になんなくても、食えなくても、浅草の芸人だっていう会員権だけもらえれば、そこで野垂れ死してもいいかっていうところがあったんですよ。で、行っちゃったんですよ。
と発言されており、浅草のアパートで野垂れ死んだ深見さんを連想さす芸人のロマンを語っています。
2022年に上島竜兵さんが死去された際には、
「上島、大変ショックです。40年近く前から一緒に仕事をしてきたのに、芸人は笑っていくのが理想であって、のたれ死ぬのが最高だと教えてきたのに、どんなことがあっても笑って死んで行かなきゃいけないのに、非常に悔しくて悲しい」
と発言しており、幾度も芸人の野垂れ死ぬ美学について言及されています。
生きてる時から亡くなる直前まで、たけしさんに背中で語った深見さんは、たけしさんにとって生涯”父親”のような存在であったことでしょう。
深見千三郎の左手の指。戦時中に自ら落とした?包帯を巻いて舞台に上がった
火事で亡くなった深見千三郎さんですが、現役中は”左手の指がない”として知られていました。
実は深見さんは戦時中に徴用されていた軍需工場にて、機械に左手を巻き込み、左手の親指以外の4本指を失ったのです。
これは事故ではなく、戦場に行きたくなかった深見さんが、自分でわざとやったそうです。
戦争が終わって人前に出る芸人になりましたが、深見さんはそれをコンプレックスにしなかったそうです。
それでも、お客さんへの気遣いで、舞台に出る際は左手に包帯を巻いたり、ジャケットやコートを羽織り左手が見えないように工夫していたそうです。